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雑談しようよ

日常に潜む小さな魔法ーー川上弘美著『ぼくの死体をよろしくたのむ』を読んで

Uターンラッシュで満員の新幹線の中で、ちらりと隣の席の人を見遣る。

この人にもこの人の人生があって、ただ新幹線の隣の席に座っただけの私も、もしかしたらこの人に何かしら影響を与えているのかもしれない。

その影響は、できればふわふわとした魔法のようなものであってほしい。

そんなことを思うのは、年始にあの小説を読んだからだろう。

 

川上弘美著『ぼくの死体をよろしくたのむ』。

タイトルの不穏な印象とは裏腹に、より身近で温かい、人と人の見えないつながりを描いた短編集だった。表題作の『ぼくの死体をよろしくたのむ』も、焦点は「ぼくの死」ではなく、その後の残された人同士のゆるい繋がりを描く。

 

この短編集を特徴づけているのは、時折現れる「天罰を下す儀式」や「魔法」や「死者と再会できる廊下」。ごく一般的な生活をしていると思われる登場人物が、何の気無しにやすやすと日常の線を飛び越えて非日常に行ってしまう。

まるで、現実の私の生活にもその境界は存在して、あと一歩前に出れば、簡単に飛び越えられると思えるほど、気軽で、曖昧な日常・非日常の線引き。

帰省ラッシュですれ違う人々の、その中の数人には、「儀式」や「魔法」や「死者との再会」をしている人がいてもおかしくないと思えるほどの自然さで、この小説たちは私の日常を壊していく。

 

また、この小説で描かれているのは、友人や家族や恋人など深くて濃い関係だけではない。例えば、街で偶然ぶつかった人。例えば、手帳に記された知らない名前の人。人生の中のほんの一瞬交錯した人間の、そのほんの一瞬を丁寧に、魔法のように優しく、時にドラマチックに描く。

 

その美しさが凝縮された箇所を一部引用したい。

 九月一日、後藤光史と二階堂梨沙は、ほんの一瞬だけ、同時に同じ場所にいた。

 二人が出勤する途中の乗り換え駅に、一匹の蝶が舞い込んできた、その、時ならぬふわりとしたはばたきに、気がついて首をもたげ優雅に飛んでゆく姿を見たのが、後藤光史と二階堂梨沙だったのである。何人かの人間をへだて、確かに二人は同じ蝶を見、その軌跡を追ったのだけれど、数秒後には互いの存在も知らないまま、別々の方向へと移動してゆき、ことなる路線の電車に乗りこみ、蝶のことはそのまま忘れた。

  (『ぼくの死体をよろしくたのむ』より「バタフライ・エフェクト」)

 

ほんの一瞬、同じ蝶を見たというそれだけの描写が、なぜこんなにも美しいのか。

私たちの日常も、もしかしたらこれだけ美しい情景に包まれているのかもしれない。私たちが気づいていないだけで。

 

そんなことを思いながら、街を歩く。

きっと誰も私のことなど気づいていない。

私も彼ら一人ひとりに意識を向けたりはしない。

それでも、ここで出会う何人かと、いつか奇跡のような再会をするのかもしれない。ふわふわと舞う蝶の様な魔法に導かれて。

 

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