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雑談しようよ

安らかにお眠りください

「人身事故の影響により、この電車は30分遅れて運転しております」

 

東京に住んでいると、1週間に1度は人の死が自分の生活に介入してくる。誰かの死が静かに私の生活に痕跡を残す。電車は遅れ、乗客はそれぞれ不満を態度で表し、私たちは会社なり学校なりに少し遅れて到着する。取るにならない痕跡。しかし、しっかりと人の死を意識させられる瞬間。

それが景気の悪化や長引くコロナ禍によって、さらに頻度が増したように思う。

 

「死ぬ勇気があるなら、その勇気を生きるのに使えばいいのに」

なんてことがよく言われるが、それは自死を考えたことのない人から発せられる妄言だ。

自ら死を選べるほどの強いエネルギーは、生きるのには使えない。タンパク質と電気信号でできた単純なこの体には、エネルギーが莫大で、使いこなすことができない。

さらに、人間界で生きるには多種多様の縛りがある。性別役割や各年齢における役割ーー何歳になれば会社に就職して、どれくらいのお金を稼いで、結婚して、家庭を作ってーー真人間らしく生きるには必要なルールがあまりにも多すぎる。体内のエネルギーがその縛りの中で空回りして、溢れ出てしまう。

その体内のエネルギーを抱えながら、今は不景気やコロナ禍の外部の重圧にも耐えなければならない。内からも外からも自分を攻撃し続ける人生がどれだけ苦しいか。妄言を吐くような人にわかるだろうか。

その苦しみから逃れるには、エネルギーの器、つまりその体を壊すところから始めるしかなかったんじゃないか。

 

私も何度も自死を考えたことがある。

その度に失敗し、もうどうしようもないと思った。死は私の最後の砦のような存在、唯一の救いだったから。自死を選ぶことで、ようやく私は私を救うことができると思っていた。しかし失敗を繰り返すことで、私にその選択肢はないということを何度も思い知らされ、絶望し、世の中の「自らの救済」に成功した人々が羨ましかった。

私には、死ぬまでのエネルギーもないのだと思った。

 

真人間の顔をして会社に勤めることもできず、かといって自由奔放な生き方を選ぶ勇気もない。ましてや死ぬ勇気なんて、もう微塵も残っていない。

中途半端な私は、中途半端な器と中途半端な重圧を抱えて、ただゆっくり時間をかけて腐っていくしかないのだ。

 

 

自死を選べた人よ、おめでとう。

あなたの周りの人はそんなことは一切思わないだろうけど、自分を自分で救うことができたあなたは恵まれている。人生の最後に思いを遂げることができたことを、私は羨ましく思う。

あなたの死は祝福の形で私の中に確実に残っているよ。

どうか安らかにお眠りください。